第2回コラム
国産ジーンズ誕生記 その1
今や皆さんのワードローブにはなくてはならないものになったジーンズ。
他の業界と同じく、ジーンズの国産化も様々な歴史を経て、現在みなさんのお手元にあります。
今回から、それについて記そうと思います。
少し前まで、海外製のアパレル製品といえば中国製がほとんどでしたが、現在ではベトナム・インドネシア・フィリピン・バグラデッシュなど、東南アジアの国々に拡がっています。
その理由は、機械化が難しく人手に頼るアパレル生産は、中国の経済発展による人件費上昇によって、より安い労働力を求めて途上国を転々としてゆくジープシーのような産業だからです。
長きに渡って中国がその任を負ってきたのは、その労働人口の多さによります。
途上国が発展するための第一歩として、安い労働力を武器に、設備投資がそれほどいらないアパレル産業から着手して外貨を稼ぐのが王道なのです。
かくいう戦後の日本もそうでした。
1945年の敗戦当時、戦争でこてんぱんに荒廃した日本は、その日に食べるものにも事欠く、世界で最も貧しい国のひとつでした。
日本の戦後復興に大きな役割を果たしたのが、やはりアパレル産業でした。
安い人件費に加えて、まじめに働く国民性を武器に、「ワンダラー($1)ブラウス」に代表される激安の綿製品、生糸や生地をアメリカに輸出しまくって、外貨の稼ぎ頭として、繊維産業は終戦間もない日本の主要産業になります。
さらに、1950年の朝鮮戦争の特需も加わって、敗戦からたった10年後の1955年頃には最盛期を迎え、織機が「ガチャっ」と動くたびに1万円入るという意味の「ガチャ万」という言葉が生まれるほどの活況になりました。
一方、アメリカのアパレル産業は、現在日本の産業が中国や新興国との価格競争に敗れて衰退しているように、日本の安物攻勢で大打撃を被りました。
戦勝国のジャイアン・アメリカは貿易不均衡の是正を要求してきて、ガチャ万を謳歌していた業界ににわかに暗雲が立ちこめ始めます。
話は逸れますが、今から10年前といえば東日本大震災が起きた頃ですから、つい先日の事のように思います。
国全体がこっぱ微塵に破壊され尽くしてから、たった10年でアメリカと貿易摩擦を起こすような産業が出現したのですから、その時代の人達がいかに猛烈に働いたか、週休二日が当たり前の今では想像すらつきません。
古い工場に行くと、当時住み込みで働いた女工さんの古い宿舎が残っていたりします。
中学校を卒業したら、実家を離れて住み込みで働くのが当たり前の時代だったことが伺えます。
貿易摩擦解消にむけて、1957年から段階的な輸出総量の自主規制が始まり、東京オリンピック前年の1963年に繊維製品の輸入自由化が決定され、輸出一辺倒の時代から変化を迎えます。
1968年にアメリカのアパレル産業保護を選挙公約にしたニクソン大統領が誕生すると、日米交渉はさらに熾烈を極めます。
そこに、大統領の「選挙公約」と、昭和天皇と佐藤栄作(首相)の「沖縄返還の悲願」という利害が一致。
尖閣諸島を含む沖縄諸島の返還と引き換えに、アパレル輸出を大幅縮小するという密約に従い、当時通産大臣だった田中角栄によって、1971年に「日米繊維協定」が結ばれます。
その手法は「重戦車」田中角栄らしいもので、織物工場の機械を国が買い上げて二度と生産できないように破壊するという、強引なものでした。
当時の繊維産業は、日本の主要産業のひとつですから、社会へのインパクトは相当なものだったはずです。
今で言えば、北方領土の返還と引き換えに、トヨタなど自動車産業の生産設備の大半を破壊して、労働者を大量解雇するようなものですから。
沖縄返還については、本土の国民も大きい痛みを伴ったことを、繊維業界に身を置く人間は心の片隅に置いておかねばなりません。
時を戻して、1963年の繊維製品の輸入自由化を見越して、新たな商売を目論む人々が現れます。
その中に、ジーンズの国産化を目論む人間がいました。