第3回コラム

国産ジーンズ誕生記 その2

< 運命の1963年 >

 

外需から内需へ

 

来たる1963年(昭和38年)の繊維製品の輸入自由化と日米綿製品協定に向けて、日本のアパレル業界は対米輸出一辺倒の外需頼みから、国内向けの内需への構造改革が急務になります。

 

タイミングのいいことに、その頃の日本は、戦後復興から高度成長期に入りつつありました。

生活必需品だけでなく、新幹線が開業し、団地に車にカラーテレビ、音楽・娯楽・旅行・舶来品など、物欲を刺激する目新しいモノが続々と発売されます。

敗戦から立ち上がって、多少ながらも豊かになった人々は、旅行や買い物を楽しむゆとりができ、経済成長による所得上昇と高インフレの時代が到来して、内需が急拡大してゆきます。

 

ファッションもまた、そうした人々の興味を集めた分野です。

服は着られれば何でもいいものから、自己表現のツールに変化し、それまでオーダーメード(仕立屋であつらえるか自分で作る)が当たり前だったものが、レディメード(既製品)が流通し始めて、流行のアイテムを手軽に買えるようになりました。

 

 

国産ジーンズを作ろう

 

既製品を販売するショップが増えるに従って、ブランドも雨後の竹の子のように増殖してゆきますが、それでも新品のジーンズは長らく輸入品頼りでした。

なぜ国産化できなかったというと、デニム生地が入手困難だったのです。

デニム自体は簡単な織物ですが、インディゴ染めの糸を大量生産できる染色機がありませんでした。

 

日本には古来から「カセ染め」という手法で染めた糸はありましたが、ほぼ手作りなので高額かつ大量生産できません。

安く大量生産するには「ロープ染色」または「シート染色」という大規模な機械で、合成インディゴで染めますが、その染色機がまだ日本にはありませんでした。

生地を輸入しようにも、輸入は外貨規制で厳しく制限されており、国産化するのは難しい状況でした。

 

ちなみに、1960年前後の新品の輸入ジーンズの値段はというと、仮に現地で5ドルのジーンズでも、関税やら運送費やらで15ドル前後(1ドル360円だと5,400円くらい)のプライスタグだっただろうと推測されます。

安く感じますが、この頃のサラリーマンの平均月給は2万円以下ですから、月収の1/4以上(今の感覚だと6〜7万円くらい)もする高級品なので、新品のジーンズなど普通の日本人にはとても買えた値段じゃありませんでした。

 

ただし、ジーンズそのものは、戦後の闇市の時代から米軍払い下げの履き古された淡いブルーの古着が「Gパン」(G.I.(=米軍)パンツ)の名で安く流通していたので、すでに日本人にはなじみのアイテムでしたが、パリッと糊が効いた濃紺の新品ジーンズを見たこともない人がほとんどでした。

 

既製品が急速に拡大する中、来たるべき1963年の繊維製品輸入自由化に合わせて、アメリカからデニム生地を輸入して日本で縫って、誰もが買える値段で新品のジーンズを売り出そうと画策するビジネスマンが現れます。

 

その中の一人が、アメリカからジーンズや古着を輸入販売していた、大石貿易の創業者、大石哲夫でした。

 

 

(その3に続く)